【昨晩、母親が死にました。】◤本日の弔い曲♪【NEW AGE/EASY LISTENING】村松健 - 春の野を行く (1986)  

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▪︎昨晩、母親が死にました。おそらく入浴中の心不全。実は4〜5年前から身体的な体力が衰え始め、当初は本人も加齢によるものだと思っていたけれど、昨年 (2019年) の3月に「認知症 (アルツハイマー) 」と診断され、その後も体調不良 (歩行困難や吐き気や疲労感等) は続いていた。元々少しトボけたキャラだったこともあり、同居していた父親と弟もなかなか気付かなかったものの、流石にこの2〜3年は薄々気付いていた模様。オレが「認知症確定」前に最後に会ったのが2018年のGWで、その時は口数こそ減ったものの、特に「認知症」の気配はなかった。その後、2018年の秋頃から徐々に原因不明の体調不良を訴え始め、しょっちゅう内科に行っては「吐き気止め」や「喉の炎症を抑える薬」等を処方されていたようだ。

▪︎昨年 (2019年) のGWに帰省しようとしたところ、父親から母親が「認知症」であることが告げられ、体調も良くないから「来なくていい」と言われ、オレはGWの明けた6月のある日、約1年ぶりに母親に会った。以来、頻繁に電話をし、実際にも会い、細かく彼女の心情 (言葉) や態度を観察していると──<もしかすると、母親は「パーキンソン病」を併発しているのではないか>──と思い当たる節が幾つか散見され、最初に「アルツハイマー」と診断した稲毛のヤブ医者──結局「アルツハイマー」ですらなく「前頭側頭型認知症」だった──に新浦安の「順天堂大学医学部附属浦安病院」を紹介してもらおうとしたら「お母さんはパーキンソン病ではないです」と断られたので、近所の掛かりつけの胃腸内科で「紹介状」を作ってもらった。

▪︎初診時に脳神経内科の若い先生 (フィギュアスケートの高橋大輔似) に母親の症状を伝えると、2019年7月24日、脳内のドーパミン量を測定する「DATスキャン検査」を行った。この頃には車椅子を使わないと歩行もままならない状態まで体力は落ちていた。検査の結果はオレの見立て通り「パーキンソン病」だった。それからすぐに投薬治療が始まり、2ヶ月が過ぎた頃から目に見えて効果が現れ始めた。両手を振って歩けなかった母親はシッカリ両手を振って歩けるようになり、徒歩10分のところにある海岸まで一人で散歩に行くことも可能になった。体調も良くなり、他の薬は一切飲まなくなった。国の「難病指定」も取得した。

▪︎通院は、朝、父親の車で「新習志野」まで行き、そこから弟が「新浦安」まで電車で付き添い、そこでオレとバトンタッチして、オレが病院に一緒に通った。薬を貰って帰る途中に駅で「Bützのサンドイッチ」を買うのが毎月の恒例行事になった。帰りは「海浜幕張」で降りてタクシーで近所の海まで行き、そこで一緒にサンドイッチを食べた。母親の足取りは軽やかで、認知の症状も緩和され、オレの冗談に笑うことも増えた。

▪︎順調な回復を見せていた母親だったが、今年の3月、雨戸を閉める際に飼ってる猫が外に出ようとしているのを追い掛けて縁側から落ちて左足首を捻挫した。その折り、ちょどコロナ騒動が深刻化し、弟は在宅ワークに切り替え、父親も4月の「緊急事態宣言」から店 (大手町のビルにある小さなカメラ屋) を休み、ずっと母親と一緒にいれたことは、不幸中の幸いでもあった。4月からは「訪問看護」と「理学療法士によるリハビリ」を在宅で始め、足の怪我も徐々に回復しつつあったが、オレの見る限り、横になっている時間が増えたことで明らかに認知の症状は進み始めていた。


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▪︎日がなボぉーっとしてる時間が増え、口を開けて天井を眺めている母親に「もう、天国の階段が見え始めたのか?」と冗談を飛ばした。線香花火の最後の玉が静かに落ちるように、命の灯が徐々に消えつつあることを悟ったオレは、この4月に、実家で「葬式用」の写真を幾つか撮っておいた。

▪︎死ぬ当日は理学療法士が来る日 (5回目) で、最初の3回はオレも立ち会ったが、父親が在宅していたので、この日は行かなかった。午前10時40分頃の訪問なので、10時過ぎに少し電話で話した。会話は続かず、完全に〝あちら側の世界 (彼岸) 〟にいるようだった。ところが──最近はいつもそうだったが──、一通りのリハビリを終え、オレが彼女の手を握って (濃厚接触して) 目を見て話し掛けると、ようやく〝こちら側の世界 (此岸) 〟に戻って来て、オレの冗談にもよく笑ったし、言ってることの半分は分からないが、彼女も独特の内省的な〝自分語り〟を始めた。写真はそのタイミングで撮った。それは、日に日に〝あちら側の世界 (彼岸) 〟に滞在する時間が長くなり始めていることをオレが文学的に感じ取っていたからだ。

▪︎元々「写真嫌い」な母親を笑わせることは簡単ではなかった。だから、わざと「変顔」をさせて、撮った写真をその場で彼女に見せ、自分の変顔を見て笑った瞬間にカメラを向けてシャッターを切った。オレは生まれながらにカメラ屋の息子なのである。

▪︎元々スーパー専業主婦で、料理、掃除、裁縫──機械だけは苦手だったけど──、何でもできた。とにかく一日中動き回るような人だった。朝、家族を送り出すと、掃除・洗濯・買い物・庭の花の手入れ・草むしりを済ませ、午後2時頃から近くの海に一人で釣りに出かけ、イワシやアジを釣って来て、それを自分で捌いて、夜の食卓にはイワシの刺身とアジフライが並んだ。moukan1973♀のホツレたスカート等もよく直してくれた。

▪︎そんな母親も、最後は何もできなくなった。料理の作り方は忘れ、大好きな芸能ニュースやフィギュアスケートをTVで観ることも、いつの間にかなくなっていた。何かにハマると近所の図書館で関連本を片っ端から借りて来て、特に花の名前等は、花屋の友人も驚くほど詳しかった。若い頃に絵の勉強をしていたから手先が器用で、文学少女だった。若い頃は映画も好きで、昭和の芸能人で知らない人はいないというくらい、異様にエンタメに詳しかった。山口百恵が大好きだった。三浦和義の「ロス疑惑」を伝えるワイドショーを朝から夕方までハシゴして (見過ぎて) 、最後は自己嫌悪に陥っていた。そんな彼女も、最後は誰のことも覚えてはいなかった。幸い、名前は出ずらいが、オレとmoukan1973♀のことはちゃんと分かっていた。最後に会った時、TVに写ってる美輪明宏を見て「この人、気持ち悪い」と言ったのを聞いて、オレは心の中で爆笑した。

▪︎最後は呆気なく逝ってしまったけれど、去年の6月にオレが深く介入するようになってからは体調も良くなり、正しい「病名」も判明し、3月に転んだことが結果的に死期を早める結果になってしまったが、最後は苦しむことなく、認知症やパーキンソン病が深刻化する前に死んだことを思えば、悔いはない。コロナのおかげで父親も「結婚して、こんなに毎日一緒にいたのは初めてかもしれない」と言っていたし、意外と悲しみは少ない。

▪︎オレに唯一の悔いがあるとすれば、彼女は最後まで、息子の類稀なる文才を知らずに死んでしまったことだ。こんなことになるなら、適当に書いた小説で新人賞くらい獲っておけば良かったカナートとも想うが──「現状とは常にbetterである。」 ──実はこれはオレ自身が導き出した我が人生最高クラスの真理なのだが、要するにそういうことだ。オレは「作家にならないこと」を選択した (betterとした) のだ。本当になりたければ、もうとっくになってる。

▪︎昔はデリケートな性格で傷つき易く、天然なところもあったがAB型の気分屋な面もあり、少し気に障るようなことを言う人でもあったけれど、最後はボケてくれたおかげで、随分と可愛らしい人になった。だから、母親とのこの1年は、とても良い日々だった。そして何より──これが一番大事なことではあるが──彼女がオレを作った

moukan1972♂














 ▶︎村松健 - 春の野を行く (1986)
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 ▶︎My Mother (2020年5月8日没・享年77歳/2020年4月10日@磯辺の自宅にてオレが撮影)
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 ▲母親が今のオレの歳くらいに「紙粘土人形」の先生をしていた頃の作品。


moukan1972♂



※2019年4月22日よりコメントは「承認制」に、同年6月15日より非公開コメントが「不可」になりました。[詳細&ガイドライン

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